江戸時代へタイムスリップ?!
宿場風情を残す宿

下諏訪宿は300年余りの歴史を持ち、日本最古の神社の一つ諏訪大社下社の門前で、5街道の内中山道と甲州道中の2つが交差する交通の要所として栄えました。また江戸から京都をつなぐ中山道には69もの宿場がありましたが、その内唯一天然温泉の湧く宿場町として旅人の疲れを癒し、大いに賑わいました。
その名残は今でも、下諏訪の街中を走る中山道沿いの歴史的建造物の佇まいに見ることができます。ここでは、当時の宿場風情を残す旅館を、お宿に伝わる貴重な資料とともにご紹介します。

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明治41年発行 諏訪神社御柱記念 下諏訪町明細全図

鉄鉱泉本館

春宮と秋宮を結ぶ中山道沿いに当時の面影をそのまま残すのがここ、鉄鉱泉本館です。当初仕出しなどを行う割烹として開業し、後に「つたや」という名の旅籠(※)を展開していましたが、先々代がそれを譲り受け、明治37年(1904年)に創業しました。

※旅籠(はたご):旅館、宿屋のこと

画像提供:鉄鉱泉本館

建物は大正時代の宮大工によるものですが、時代の流れに応じて増改築を重ねており、中に入ってみるとかなりの奥行きがあります。内部の彫刻などは秋宮と同じ宮大工立川流によるものをそのまま残していて、特にゆるやかな弧を描いた引き戸を作る技は現在の職人には伝わってなく、修復や復元ができないそうです。
文化財にも指定されている職人技があしらわれた建物の中に滞在できるなんて、なんという贅沢。

建物そのものに歴史が刻まれている文化遺産のようなお宿です。

弓なりに弧を描いた扉。この引き戸を作る技を継承している人はなく、大変貴重だそうです。

御宿まるや

こちらは中山道を挟んで本陣の向かい側、ちょうど甲州道中(現在の甲州街道)との合流地点にある、創業1688年と古い歴史をもつお宿です。当時は脇本陣(※)旅籠として一般の旅行者も利用することができました。

※脇本陣(わきほんじん):本陣だけに収まりきらなかった場合の予備の宿を脇本陣といいます。本陣が身分の高い役人のみが泊まることを許されたのに対し、脇本陣には一般の旅行者も利用することができました。

中山道と甲州道中の分岐点の様子。奥に見えるのが秋宮(A.ファーサリ「日本写真帳」より 画像提供:御宿まるや)

明治22年(1889年)のまるやとその前に立つ火の見梯子。当時の屋根は板葺石置屋根といい、栗の木などを薄く割って葺いた上に丸石や鉄平石を重石にしていました。(撮影:P.ローエル 画像提供:御宿まるや)

現在の建物は1993年に古民家再生のパイオニア降幡廣信氏とともに、江戸末期の下諏訪宿の旅籠の建築様式を丁寧に研究し、以前の建物の梁材等をできるだけ再利用し復元したもの。構造材も含めすべて木材と漆喰壁でできており、重厚で美しくあたたかみのある木造建築からは江戸時代から続く歴史の重みが漂います。

入口正面には常客だった川東碧梧桐の書や、明治期の風情が伝わる貴重な写真も。お食事も当時より伝わる食器で提供され、例えば300年以上前の漆器でふるまわれる椀物など、思わず持つ手が震えてしまいます。

桔梗屋

こちらも中山道と甲州街道の分岐点に門を構える、創業元禄3年(1690年)の300年余り続く老舗旅館です。

西村中和画(1805)木曽名所図会巻之四・諏訪の温泉より(諏訪湖博物館・赤彦記念館蔵)

当時、中山道唯一の温泉宿場として栄えた下諏訪宿の賑わいを描いた浮世絵にもしっかり描かれています。

画像提供:桔梗屋

現在の建物は「御宿まるや」同様、降幡廣信氏によって設計、建て替えられました。皇女和宮の母君をはじめ、「弥次喜多道中」で有名な十返舎一九や安藤広重、竹久夢二、斎藤茂吉など多くの文人墨客にも愛され、また、明治には多くの外国人でにぎわったそうです。

各種文献を参考に皇女和宮へ提供したお食事を自力で再現したり、町に伝わる伝承や歴史の保存に熱心に務めるエネルギッシュな女将のお話はまさにプライスレス。帳場(※)で公開している貴重な資料の数々も、女将のお話によって色鮮やかによみがえります。好きな方は夢中になるあまり、いつの間に空が白んでいるかもしれません。

※帳場:旅館や商店などでお勘定をする場所。勘定場とも言います。

みなとや

こちらは合流地点をすぎて中山道に入ったところにある江戸中期創業のお宿。現在の建物は、この界隈では最も早く降幡廣信氏によって建て替えられたものです。

特徴は、なんといっても米誌「ライフ」にもっとも日本的と紹介されたお風呂。

お庭の真ん中にある外湯。入るのにちょっと勇気のいる温泉です!

また、世界的な芸術家岡本太郎をはじめ、白洲次郎・正子夫妻、永六輔など錚々たる粋人や文人に愛された、いわばサロン的な役割を果たしたお宿でもあり、その貴重なエピソードの一部がホームページで紹介されています。

みなとやの前でポーズをとる岡本太郎 (画像提供:みなとや)

たとえば、お風呂に敷き詰められた白い玉砂利。岡本太郎氏が初めて入浴した際、湯船の底のスノコが浮き上がり溺れたような状態になって大声を上げたそうです。
源湯である綿の湯は、縄文時代から湯浴みの場だったことを踏まえ「縄文時代の温泉なら底は石だ」と一言。これをヒントに白い玉砂利を敷き詰めたそうな。

みなとやを訪れた永六輔と岡本太郎(画像提供:みなとや)

激動の時代を生きた文芸家を癒し、ともに歩んできたお宿です。

いかがでしたか?下諏訪町には、ほかにも多くの由緒ある旅館が今でも旅人の身も心もを癒しています。長い歴史を感じながら、この機会にぜひ下諏訪町にご宿泊されてみてください!

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