先史時代~古代
この町で人が活動しはじめたのは、実に2万年以上も昔のことです。貴重な黒曜石鉱山の史跡である星ケ塔遺跡をはじめ、「和田峠」周辺で「黒曜石」という優れた石器材が手に入ることはよく知られていました。旧石器時代から縄文時代、弥生時代前期まで通じて、和田峠産黒曜石は広く流通し続けたのです。それが下諏訪町の原点となりました。
しかし、鉄器が到来し黒曜石が使われなくなってからしばらくの間、諏訪地方の存在感はやや薄まります。古墳時代、有力なリーダーがいた証拠となる前方後円墳は、古墳時代も終わりに近い6世紀後半の青塚古墳が唯一のものです。この時期初めて、馬を扱える有力なリーダーが諏訪に現れました。彼らの出現が諏訪大社(江戸時代までは諏訪神社もしくは諏訪大明神)の成立に関わっていることも、ほぼ間違いないでしょう。
平安時代~鎌倉時代
彼らは東国の平定を進めるヤマト王権に貢献し、おそらくその結果でしょう、奈良末期から平安前期にかけ、中央における諏訪の神様の評価は一気に頂点まで達します。そして「下社」を拠点とするこの一族は金刺氏を名乗り、木曽義仲の挙兵、源頼朝の鎌倉幕府開府に至る源平合戦の時代に名を残します。
当時の上社と下社の関係には不明な点も多いのですが、諏訪勢力は執権北条氏と強く結びつき、「御射山祭」という東国武士の武芸大会でもある壮大な神事を通して権威を高めていきました。いつからか、上社の一族は諏訪氏、下社の一族は金刺氏と区別して名乗るようになっていきました。
室町時代~戦国時代
鎌倉幕府の権威は次第に弱まり、その終焉にあたって、北条氏の遺児をかついだ諏訪勢力は「中先代の乱」を起こし鎌倉を占拠します。が、ほどなく足利尊氏の勢力によって討たれ、これをきっかけに尊氏は征夷大将軍となり、室町幕府を開くことになるのです。
諏訪氏は逆賊となったわけですが、京都を拠点とした支族の努力で、室町時代も諏訪明神の権威はなんとか保たれました。しかし南北朝の対立~戦国時代の混乱の中、上下社の対立が激しくなり、ついに金刺氏は諏訪氏に滅ぼされてしまいます。その諏訪氏もまた、追って武田氏に惨敗します。しかし武田信玄は諏訪明神の熱烈な信奉者でもあり、諏訪氏の血を引く勝頼に家督を継がせ、荒廃した諏訪社の再興を進めました。
戦国の世はめぐります。信玄亡き後、織田氏が武田氏を下し、諏訪を支配下におさめます。直後に本能寺の変。諏訪氏が徳川家康に従ったことで、ようやく平穏が訪れました。
江戸時代
諏訪は幕藩体制の下、高島藩として生まれ変わりました。そして下諏訪は、幕府が定めた最重要幹線である五街道のひとつ、中山道の宿駅に定められます。和田峠という街道随一の難所を控え、同時に甲州街道の終点と交わる要衝、いわばターミナルです。それは、黒曜石の交易に始まる古い古い時代からつながる必然だったのかもしれません。
高島藩の所領は3万石。決して多いとはいえません。農地に恵まれない小さな藩でしたが、交通の要衝であることを生かし、商業、工業、流通で「宿場町」として大いに栄えました。江戸後期になると庶民にも余裕が生まれますから、諏訪大社、下諏訪温泉、諏訪湖という観光資源の存在も忘れてはならないでしょう。そんな中で、中部地方で広く活躍した「大隅流」、「立川流」という社寺建築の名匠も生まれ、それぞれ春宮、秋宮に代表作を残しました。
また、近代の繁栄へと続く養蚕業の礎も、この時期に築かれつつあったのです。
近現代
明治維新の暴風は諏訪にも吹き荒れました。特に印象深いのが、赤報隊の一件でしょう。新政府軍の先鋒隊として東山道を駆けあがりましたが、激変する政情の犠牲となり、ここ下諏訪で処刑されました。顕彰碑魁塚が今も残されています。
そして諏訪は、工業で栄えます。片倉氏が養蚕業にいち早く洋式を取り入れ近代産業化したことで、世界に名だたるシルク産地としての地位を確立します。近隣の地から多くの女工さんが集まり、休日の商店街には若い女性が溢れかえったといいます。今ではなかなか想像できませんが、当時の下諏訪や岡谷はまさに都会だったのです。今に残る遺産として、大正風建築、和菓子屋と美容室の多さなどが挙げられるでしょうか。
養蚕業は世界恐慌によって急激に衰えますが、豊富な水と乾燥した空気という環境資源を生かす工業の基盤は、精密機器産業へと引き継がれます。セイコー、オリンパス、ヤシカ、チノン、サンキョーといった企業が諏訪から誕生しました。そこにはきっと、歴史の中ではぐくまれた、状況の変化に柔軟に対応する諏訪人の気質が生かされていたに違いありません。
都市一極集中の時代となり、諏訪も次の一手を求められています。まずは、こうした長い歴史が残してくれた貴重な遺産を守り、みなさんをお迎えできるよう努めてまいります。
寄稿:石埜三千穂(いしの みちほ)
スワニミズム事務局長、フリーライター。下諏訪町在住。進学で上京し、コンピュータゲーム関連のライターとして活躍後、帰郷。郷土史、民俗学、考古学、信仰史、芸術活動支援等の任意研究団体スワニミズムを結成した。