コラム:下社の謎

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諏訪大社は、上社の本宮と前宮、下社の春宮と秋宮という、離れた場所に鎮座する二社四宮からなっています。他に例をみない独特の構造ですが、熊野や宇佐八幡をはじめ、古くて大きな神社はみな独特の複雑な構造をしています。それは長く続いた繁栄と、たび重なる変遷の結果であり、諏訪大社もそうした由緒正しい神社のひとつなのです。

なぜそんな構造になったのか答えは簡単に出ませんが、ひとつ、諏訪湖を挟んで南北に上下社があるのは、かの有名な御神渡(オミワタリ。正式には「御渡/みわたり」)があるためだとも言われます。御神渡は、上社に暮らす男神が下社の妃神のもとに通う道だという伝説があります。神様の移動をお祭りすることを遷座とか御幸(みゆき)と言いますが、南北朝時代、諏訪大社の縁起に「御渡は当社の御幸」と記されています。室町時代以降、御神渡の観察と奉告は諏訪市の八剱(やつるぎ)神社が務めていますが、もしかしたら諏訪大社本体の正式な神事だった時代もあったのかもしれません。なるほど、それが諏訪湖を挟んで上下社を祀った理由なのかもしれませんね。

さらに、諏訪大社には上下社それぞれの遷座祭があります。上社は現在の御頭祭がそれに当たりますが、下社では、二月一日に秋宮から春宮へ、八月一日に春宮から秋宮へと神様が引っ越しをします。それぞれ神輿を中心とした行列が仕立てられ、特に八月は、遷座を祝って氏子たちが勇壮に「お舟」を引き回す「お舟祭」がおこなわれます。これも見ごたえ十分、諏訪大社のお祭りは、御柱祭だけではないのです。

春と秋の遷座については、一般に、山にいる神様が、春、里に降りてきて、秋、恵みをもたらすと山に帰っていく、といわれています。けれど、春宮は別に山にあるわけではありません。ただ、中世、東国武士たちの武芸オリンピックの様相を呈していた「御射山祭」は、大社の四宮よりずっと高い山奥でおこなわれていたため、この「御射山」こそが山宮のようにも思えるのですが、これも時代によってさまざまに姿を変えてきたのでしょう。御射山祭は、三才児の健康を祈る秋祭として今も続いています。しかし、太古、どんな信仰、どんなお祭りだったのか、今となっては霞の彼方です。

「古くて大きなお宮」である諏訪大社には、まだまだたくさんのミステリーが潜んでいます。戦乱のため、下社に古文書がほとんど残されていないことがいっそう謎を深めています。もちろん、御柱もミステリーのひとつ。たとえば下社では木落しが有名ですが、木落しそのものは神事ではありません。神様の住まいである御宝殿を建て替えることがお祭りの本質、一般に知られていないところで太古を偲ばせる神秘的な神事が執り行われているのです。
謎だらけの諏訪大社下社、お参りの際は、ぜひ注意深く境内を観察してみてください。

寄稿:石埜三千穂(スワニミズム)
スワニミズム事務局長、フリーライター。下諏訪町在住。進学で上京し、コンピュータゲーム関連のライターとして活躍後、帰郷。郷土史、民俗学、考古学、信仰史、芸術活動支援等の任意研究団体スワニミズムを結成した。

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