湯之町・しもすわ 綿の湯伝説

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江戸時代の五街道である中山道・甲州街道。この合流点に下諏訪温泉の由来となった綿の湯源湯がございます。綿の湯は、諏訪大社のご祭神の妃神、八坂刀売神(やさかとめのかみ)が、開湯された温泉であるとこの地には言い伝えられています。
昔々ー神代の時代のことー 
古事記の国譲り神話に出てくる建御名方神(たけみなかたのかみ)と八坂刀売神(やさかとめのかみ)がこの地を治められていた頃のお話。

ある時、八坂刀売神が、建御名方神と喧嘩をしました。諏訪湖を挟んで対岸の下社に移り住むことにし、その際に毎日お化粧に使っているお湯を湯玉にし綿に包んで持っていきました。小舟に乗って湖を渡る途中、その綿からぽたぽたと湯が落ちたところ、湖の中からも温泉が湧き出ました。

中山道と甲州道中の分岐点にある綿の湯跡

秋宮あたりに着き、持ってきた湯玉を置いたところ、不思議なことに、綿を置いたその場所からコンコンとお湯が湧き出てくるではありませんか! これが下社秋宮の脇にある「綿の湯」の縁起です。この「綿の湯」は女神さまのお使いになるお湯(ご神湯)ですので、心の汚れた者が入ると、みるみる湯口が濁るという言い伝えがあり、下社七不思議の一つ「湯口の清濁」として伝えられています。

「諸国温泉効能鑑」

このご神湯「綿の湯」は、江戸時代になり、五街道と言われる街道が整備されると、その中の二つ、中山道と甲州街道の分岐点に湧く温泉として、多くの旅人を癒し、旅人から旅人へ、口伝えで評判が広まり、「諸国温泉効能鑑」(今でいうところの温泉ランキング)の中でも東の小結として「信州・諏訪の湯」と書かれました。

中山道は、当時、峠はあれど川がない(大井川などの大きな河川がある東海道は、時の幕府が敵に容易に攻められないよう橋を架けなかったため、河川が増水すると渡れなくなるという弱点がありました。川が渡れないと必然的に足止めとなり、旅費が莫大にかかる)ことから参勤交代の大名や将軍家に輿入れ※1した姫君も利用しました。また中山道は六十九次もの宿場がありましたが、温泉が出るのは唯一この下諏訪宿だけ。当時は掘削の技術がありませんから当然、自然湧出の天然温泉しかありませんでした。京都に行く人も江戸に行く人も、難所、和田峠を越えてくる人もこれから越えようとする人も、この下諏訪の温泉でさぞかし人ごこちがついたことと思います。こうして下諏訪宿と下諏訪温泉は一層栄えることとなりました。
さて「綿の湯」の他にも、江戸時代に諏訪の名湯としてその名が知れていた二つの湯がございます。児を授かるとして名高い児湯。江戸時代、高島藩士の書いた『諏訪かのこ』という書物にも「気をめぐらし、血をおぎないよろず子をあらしむ」とその効能が記されております。また鎌倉時代創建の禅寺の修行僧が入ったと言われる旦過の湯。いずれも江戸時代には、「綿の湯」と並び、この二湯を含め、諏訪の三名湯として人口に膾炙※2しておりました。

秋宮ご神湯

余談ながら、下社秋宮境内には、全国でも珍しい温泉の手水舎「御神湯」がございます。湯口は建御名方神が、竜に姿を変えたという竜神伝説にちなんで竜の口、流れ出るのは少し熱めの天然温泉です。
 古事記から連なる神話の世界が今も生きる諏訪の温泉。神様がもたらした湯の伝説に思いを馳せ、そのお湯につかれば身も心も温まり、自然と清められるような心地すらします。

※1 輿入れ(こしいれ)…嫁の乗った輿を婿の家にかつぎ入れること。よめいり。婚礼。
※2 人口に膾炙(かいしゃ)する…広く人々の口の端にのぼってもてはやされる。
(出典:広辞苑)

寄稿者:武居智子
温泉旅館・ぎん月代表。大女将が健在なので、決して若くはないが肩書きは若女将。歴史好き、本好き、着物好き、当然のことながら温泉好き。今年の目標は個人蔵の書籍で館内に図書館を作ること。

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